会社を倒産させるという事

35歳で会社を倒産させた壮絶な日々を赤裸々に綴ります。

9.会社設立から倒産までの軌跡 ~先行投資の罠~

僕は4ヶ月の鬱憤を晴らすように売りまくった。

 

不動産売買の入金は遅い。

早くて1ヶ月後、遅いものだと半年も先になる。

9月に契約したものの入金が翌年の3月だったりするのだ。

日銭を稼げる小売業が本当にうらやましかった。

 

とはいえ、まとまった額の入金の目途を立てたのだ。

借りた300万円の返済もスタートしてしまう。

それでも悲しいかな手元にはお金がないのだ。

 

頑張ってやっていれば見ている人は見てくれている。

そうだ僕には取り急ぎ宅建業の登録費用160万円が必要なのだ。

なんと、K取締役の会社のM社長の弟さんが貸してくれると言ってくれたのだ。

もちろん担保は契約した入金予定だ。

十分な入金額はあるとの事で、僕は頭を下げて借りることにした。

 

そういえば僕は人に頭を下げるのがものすごく嫌いだった。

頭を下げない人生を歩むためにそういう職業に就こうかと思ったくらいだ。

医者、弁護士、政治家。。。

先生と呼ばれる職業だ。

しかしながら、すっかり僕は頭を下げる事に抵抗がなくなっている。

人間の順応性はすごいなと感じていた。

 

僕はようやく自分の会社として不動産の営業ができるようになった。

6月には許可が下りていたが、支払えなかったので結局10月になってしまった。

それでも第一次ピンチを切り抜け僕は自信を持ててきた。

 

自分の会社として運営していけると思うと、なんか色々したくなってしまう。

この考えが間違いだったと今は感じている。

 

●ホームページを作りたい。

 

●折込広告を入れて広く宣伝したい。

 

●ネット集客をしたい。

 

●営業マンを雇いたい。

 

●車がほしい。

 

これを全て実現してしまったのだ。

理由は簡単だ。

これらを実現するためにかかわる業者と数社あって僕は色々聞いた。

 

なんと費用は後払いなのだ。

 

いわゆる買掛金てやつだ。

お金を払わずに先に欲しいものが手に入る。

夢のような話だった。

 

ホームページと折込広告は同じ業者だったので、合わせて100万く円らいだ。

特に折込広告というのは僕の世代の不動産屋は魂を注いで作りこむ。

気合いの10万部の折込広告だ。

 

ネット集客もやりたかった。

ステ看で十分だったが、自分の会社をアピールしたいと欲がでたのだ。

今主流のsuumoは住宅情報ナビという名前だっただろうか?

やりたかったが高いので諦めた。

アットホームは反響が取れるイメージがなかったのでやめた。

結局ホームズとホームプラザというサイトに掲載することにした。

費用が安かったのだ。

 

営業マンは、たまたま声を掛けた10年来の後輩が乗ってきた。

夜のバーテンダーをしているが昼間の仕事がしたいと。

彼とは昔ガソリンスタンドで働いていた時の先輩後輩で高橋克典に似てイケメンなのが鼻に付くが気の知れた仲だ。

月給20万円で雇う事にした。

 

車は社長らしいものを買おうとセルシオを買ってしまった。

ローンが通ったらと思ったら意外にも通ったのだ。

ちなみに営業車としてもう一台20万円くらいで入手した。

 

 

結構な額の先行投資をしてしまった。

 

 

この後訪れる第二次ピンチを前に僕の気持ちは

 

 

 

晴れ晴れ

 

 

 

していたのでした。

8.会社設立から倒産までの軌跡 ~悲願の初契約~

売れない。

 

車は燃えてなくなった。

 

お金もない。

 

会社設立して早4ヶ月。

僕は崖っぷちだった。

手元のお金は20万円くらい・・・。

家賃の支払いとガソリン代その他諸々で行先は既にきまっていた。

親には頼れないし僕は奮起するしかなかった。

 

人間は奮起するには起爆剤が必要だ。

 

お金なくて車燃えて会社守るだけでも十分な材料だと思うが、なんか今一つ足りなかった。

 

恋でもするか?

 

いやいや・・・。

 

そうだ本を読もう。

 

僕は名立たる著名人の本をひたすら読んだ。

僕は昔から本が好き。

映画は好きだが小説は読まない。

成功者と言われる人の自叙伝が好きなんだ。

読みながら、自分だったらどうしたか?等々考えながら読むのだが、やはり成功者と言われる人たちの考え方は勉強になる。

自分が生きてきた中では得られない知識が身に着くのだ。

本はその人のエッセンスだと思っている。

きっと自分を全力で注ぎこんで書いていると思う。

だから好きなんだ。

 

幸運にも僕のこの状況下でモロに奮起させる1冊に出会えたのだ。

 

杉本宏之氏の「1R男」だ。

 

彼は僕の2つ年上だが、スーパースターだった。

杉本氏に関しては詳しい説明は省略するが、不動産業界で最短、最年少で会社を上場させている。

 

杉本宏之wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9C%AC%E5%AE%8F%E4%B9%8B

 

僕の会社とも近いというのもあるが、知り合いの知り合いのような感じでよく話にはでていた。

僕は直接会ったことはないが、業界では有名人だ。

是非一度読んでみたいと思っていた1冊だったのだ。

 

彼は業界最短で上場したとはいえ、実は会社設立から間もなく会社を諦めるかどうかのピンチに立たされている。

そんな中、そのピンチを支えたのがまわりの仲間であり、杉本氏の強い精神力と熱意だった。

 

僕は今の自分に置換え深く感動を覚えた。

 

 

「よし、やるぞ!」

 

 

全身にやる気がみなぎるのがよくわかった。

僕はなんでも一人でやろうとしすぎていた事に気付いたのだ。

 

僕には支えてくれている仲間がいるんだ。

そう思い、すぐにK取締役に会いに行った。

僕はこの会社と二人三脚になり、ともに繁栄しようと誓って独立をしたのだ。

実はこの杉本宏之氏の「1R男」をさりげなく貸してくれたのはK取締役だった。

 

 

1人で悩み、1人で戦おうとしている僕に

 

俺達はチームだ

 

お前が死ねば俺達も死ぬ

 

泣くときも喜ぶ時も一緒だ

 

と、気付かせてくれたのだ。

 

僕は今までやってきたというプライドと実績と自信を捨てた。

男と男というのは時に面白い行動をする時がある。

熱くなった時というのは、体と体でぶつかり合い、分かち合う瞬間がある。

この日、僕はK取締役にボコボコになるまで殴られた。

折れてるんじゃないかというくらいに。

そうしてK取締役と社員達と共に、「やるぞ!」と熱く誓ったのだ。

 

この日以来、僕は毎日K取締役に会いに行った。

ちなみに車はK取締役の会社が貸してくれた。

K取締役は風貌は危ない人だが、基本的に不動産が好きだ。

僕と毎日毎日夜遅くまで、時には朝まで、売っている物件の間取りについて話し合ったりしていた。

僕もK取締役もそうだが、建売会社のありきたりな何にも考えられていない間取りプランが本当に嫌いだ。

 

「ここにキッチンあったほうが奥さん嬉しいでしょ!」

 

「お風呂に大きい窓つけて、壁の高いバルコニーつけましょうよ!」

 

「トイレは折戸にして車いすでもはいりやすくするか!」

 

「売り文句はわかりやすく!高断熱なんて言っても伝わらない!」

 

「じゃあ、冬は暖かく夏は涼しい家!」

 

「それだ!」

 

こんな会話を毎日していた。

プライドを捨てた僕は、K取締役から色んな事を教わった。

見かけによらず繊細で、今までの僕にはなかったものばかりだった。

 

「お前の気持ちはお客さんに必ず伝わるから自信を持て!」

 

と、言ってくれた。

 

そうして僕は売れない4ヶ月が夢をみていたかの如く、9月は4件の契約を果たしたのだった。

7.会社設立から倒産までの軌跡 ~「燃えてるの、僕の車です。」~

永遠ステ看論を語った僕であったが、実を言うと独立してから4ヵ月間のも長きに渡り僕は物件を売ることが出来なかったのだった・・・。

 

ステ看についてはこの頃毎日400枚朝から晩まで貼っていた。

足立区某所で現地販売会を行うにあたり、埼玉県の草加駅から矢印看板を引っ張ったりしていた。

お客さんは沢山集まった。

矢印看板には「すぐ近く!」と記載していたので、埼玉県草加市からお越し頂いたお客様には「どこが近くなのよ!文句言おうと思って来たけども!」とありがたいクレームをいただいたりもした。

 

集客しても

 

接客しても

 

案内しても

 

 

売れない・・・。

 

 

「おかしい。。。」

 

僕が今まで働いてきた不動産会社では3ヶ月売れないとクビもしくはクビ同然の洗礼を受けることになる。

当然僕は2ヶ月売れない事は不動産業を始めてから今までなかった。

 

ステ看もタダではない。

意外に高いのだ。

毎回5000枚単位で発注するのだが、1回20万円以上かかっていた。

この頃は数にものを言わせて貼っていたのだ。

 

しかしながら

 

 

売れない・・・。

 

お金がない・・・。

 

やばーい!

 

 

さすがに僕は焦っていた。

これでは宅建業者免許の登録どころではなかった。

 

毎日毎日合宿状態だ。

スーパーで安いカップラーメンを大量に買いこみ会社か車で寝泊まりした。

洗濯は会社の自慢の風呂場でジャブジャブ洗う。

野人状態だ。

 

夢ある会社設立。。。

 

「なんじゃこりゃ!」

 

だった。

 

自信満々で独立した僕に更なる悲劇が襲い掛かる。

 

本当に悪いことは次から次に降りかかるものだ。

呪いなのか祟りなのか。

 

負のスパイラルに完全に陥ってしまった。

 

ある日会社近くのコインパーキングに車を停めた。

気に入っていたBMWの5シリーズだ。

忘れもしない2010年8月27日の23時くらいの事だった。

 

ネクタイをゆるめていると、運転席の脇から白い煙がモクモクと。

状況がよくわからず僕は冷静に静観していた。

だんだん煙の量が増えてきた。

と思ったその時。

火がでてきたのだ!

 

「火事だ!」

 

僕は焦って自動販売機に走った。

急いで「いろはす」を2本買って車に戻ると、さっきより火の手が強くなっている気がした。

とりあえず落ち着いて僕は震える手で買ったばかりの水2本を掛けた。

 

 

 

まったく効果なし・・・。

 

 

自力での消化を諦めた僕はすぐに119番通報した。

間違えて199番に掛けてしまうも、すぐに掛けなおした。

このコインパーキングは大通りから一本路地に入った場所だったため、僕は消防車を誘導しようと燃え盛る車を離れ大通りに走って移動した。

 

こんな時の時間は本当に長い。。。

ちゃんと来るのか。。。

焦る焦る焦る焦る!

 

そんな時だった!

 

 

「キャー!家事!家事!」

 

 

中年くらいの女性だろうか。

叫んでいる声が聞こえる。

僕は戻るのが怖くて逃げだしたかった。

ただ、僕には気になることがある。

停めた車の後ろは民家なのだ。

 

家が燃えるかもしれない・・・。

 

考えただけでゾッとしていた。

 

そんな時、離れた場所からようやく消防車のサイレンが聞こえてきた。

早く!早く!早く!

僕は一生懸命両手を挙げて場所を知らせた。

 

消防車と共に僕は現場に戻った。

23時だというのに見物人は軽く50人を越えていただろうか。

すごい騒ぎになっていた。

 

BMWはさっきとは比べ物にならないくらいに燃えていた。

窓を割り、サンルーフを割ってでている炎は裏の家の2階の窓位に達していたので4m以上の高さがあったのではないか。

運が良かったのは両隣に車は止まっていなかった。

 

消防車が消火活動をしているなか、7,8人くらいで警察が来た。

 

 

 

「燃えてるの、僕の車です。」

 

 

 

僕は警察に名乗り出た。

3人の警察から色々と質問を受ける。

1人の警察が聞いてきたことを、後から近寄ってきた警察に同じことを聞かれる。

僕はショックを受けていたし、見物人から後ろ指を指されているのもわかったし本当にその場にいるのが嫌だった。

 

そうこうしているうちに、僕のBMWは沈下した。

誰がどう見てももう乗れる車ではない。

窓ガラスは全て割れていて、ボディは残っているが黒く焦げている。

ミラーは片方落ちていて、室内は全焼だ。

驚いたことにステ看は水分を乾かせばまだ使えるんじゃないかという形で残っていた。

僕を見捨てなかったのはステ看だけだった。

 

 

この後、警察に詳しい状況を説明して、翌朝8時に現場検証を行うという事でその場は解散となった。

気が付けば見物人もいなくなっている。

 

僕のカバンやらスーツの上などは燃えてしまった。

僕は昔からお金は裸でポケットに入れている。

お金は無事だ。

鍵がない。

 

解散になってしまったものの僕は鍵がなにもないので途方に暮れてしまった。

しょうがないので行きつけだったスナックへ行って何もなかったように楽しく過ごした。

あれは真夏の夜の夢

早く忘れたかったのだ。

 

 

 

売れないわ車は燃えるわ

 

 

 

この頃の僕の口癖だ。

 

翌朝現場検証を行い、結果としてはライターが火をつける形で見つかった事からライターからの出火という事で収まった。

運転席のシート下にあったのだが、シート位置を移動したか何かの拍子でライターがついてしまったとのこと。

若干腑に落ちなかったが、車の任意保険の車両保険に入るお金がなかったので、原因が特定できたところで何の意味もない。

僕は納得をした。

そして裏の家も網戸は少し溶けただけとの事で、同情してか許してくれた。

コインパーキングも壊れていたようだが、事情が事情なのでとの事で許してくれた。

 

僕は不動産屋にとって絶対に必要な車を失ってしまった。

 

僕は5年以上たつ今でも「いろはす」と「BMW5シリーズ」を見ると燃え盛るあの光景が目に浮かんでくる。

 

ドイツ車はよく燃えるからもう一生乗りません。

と断言していたが、2年後にベンツを買ってしまうところあたりが僕の良いところだと思う。

6.会社設立から倒産までの軌跡 ~ステ看~

僕はお金はないが、とりあえず宅建業者免許の申請をした。

申請だけだとたしか3万とか4万くらいだったと思う。

どの道2か月近く審査でかかって、そのあとに約160万円の支払いなのでそれまでにお金を作ろうと考えたのだ。

 

この時5月の話だが、生活費やガソリン代その他諸々で手元のお金は100万円を切っていた。

まだ僕は焦ってはいなかった。

しかし、自分の会社としては活動できないのにどうやって不動産を売るのかという問題はあった。

実は大きい問題だ。

 

これに関しては、人様の会社の名刺を借りて入金額の70%をもらうという約束で活動することにした。

つまりは、4000万円くらいの物件を売れば僕の手元には約170万円くらい入ってくる。

それで業者免許の問題をクリアして、晴れて自分の会社で活動する算段だ。

 

売り物は豊富にあった。

僕だけが売れるという物件で11棟もあったのだ。

単価は低かったが、それだけ売れるのも早いだろうと思っていた。

仮にすべて売ったとすると約2000万円の仲介手数料が入ってくるのだ。

しかもお客さんは僕からしか買えない物件なのだ。

 

不動産業者が一番大変なのは集客だ。

ネット社会とはいえ、そんなお金はない。

そもそも僕の会社は不動産業者としてまだ稼働していないのにネット掲載はできなかった。

 

僕はこれを書くべきか否か大変悩んだが、嘘を書いては何でもアリのつまらないブログになってしまうから書くことに決めた。

おとがめがあるのは怖いが、少数でもこれを読んで下さる方々がいるならば真実を伝えたいと思う。

 

僕には選択肢はなかった。

僕の集客方法は

 

 

ステ看だ

 

 

ご存じだろうか。

最近ではめっきり減ってしまった。

電柱に貼ってある広告の事だ。

 

○○駅徒歩○分

新築一戸建て

南道路・整形地

限定1棟

○○○○万円

 

こんなやつだ。

はっきりしておくが、これを貼るのは犯罪だ。

軽犯罪法違反になる。

やろうとしている方、やっている方は今すぐやめましょう。

時代的にそうかもしれないが、昔はこれが文化だった。

金曜日の夜になるとあらゆるところで貼っている人がいた。

土曜日などは現地販売会と合わせてビッチリ街中に貼られている。

 

しつこいようですがこれは

 

 

犯罪です!

やめましょう!

 

ちなみに今はというと、たまにみるのが人間ステ看だ。

体の前後に貼って街に立って人に声を掛けるという方法。

これは某大手不動産会社だが、実は僕も10年前からやっている。

これはすごく効果があるのだ。

あと見るのが電ビラというもの。

これは物件情報を書いた封筒の中にチラシを入れたものだ。

このアイデアを初めて実行したのは僕だと思っているが、不動産屋というのは実に面白い。

10人に1人くらいは自分が初めてやったと話しているだろう。

ちなみにこれも犯罪です。

 

 

僕はこの集客方法で反響を取る自信が人一倍ある。

街で貼ってあるステ看や電ビラを見るとガッカリする。

会社にやらされているのか、やっつけ仕事なのかわからない愛情がない貼り方なのだ。

中には貼らずに捨てている人もいる。

決められた枚数を貼れば満足して終わりという貼り方なのだ。

 

誤解のないように付け加えたい。

たしかに犯罪行為であることは否めないが、ステ看や電ビラの物件というのは

 

優良物件なのだ!

 

 

 

何年か前にテレビを見ていたら僕の知っている不動産屋の元常務がでていた。

「街でよく見かけるステ看などは、釣り物件で基本的に良くないが安いだけのような物件を書いて気になるようにしているだけだからやめたほうがいいです。」

というような事をいっていた。

その人はさんざんステ看を貼ってきた人だ。

全国ネットでどの口が言うのかと僕は呆れてしまった。

最近はSMAPの解散騒動で木村拓哉がやれ裏切り者だとかネットでまことしやかにささやかれているが、僕はステ看に育てられたこの元常務が業界を裏切るような発言をした事は残念でならなかった。

ちなみに引き合いに出してしまったが、SMAPは僕は好きだし木村拓哉も色々な想いがあるのだろうけど、国民的スターであることは間違いないので頑張ってほしいと思う。

 

言いたいのは

ステ看は

 

 

優良物件なのだ!

 

 

 

これだけはわかってほしい。

理由はいたって簡単だ。

ネットに掲載できる物件というのはなにかと規制がある。

たとえば新築一戸建ての場合は建築確認というのを取得しないと掲載できない。

ネットで掲載できない物件をいち早く発信する手段がステ看、電ビラなのだ。

 

貼り方に関してここで書くのはいかがなものかという話もあるが、どうしても言いたいので書いてみる。

見ているとせいぜい100枚貼って1本反響があるかないかという感じだろう。

ほぼないと思う。

愛情がないからだ。

 

僕は紙切れ1枚に命がかかっていた。

1枚でも無駄にできなかったのだ。

だから僕は1枚貼ったら最低1本の反響のつもりで貼っていた。

これは難しい事ではない。

毎日毎日考えてどんな原稿で、どうやって貼ったら反響が鳴るかを毎日必死に考えていた。

狙った場所を朝から晩まで見ていたりする事もあった。

 

僕が結果を一番出せた方法を一部抜粋しよう。

 

不動産を購入する人は日中働いている人が多いという前提で考える。

朝は通勤で忙しいし、急いでいる。

という事は有効なのはステ看でなく、チラシを持っていく事ができる電ビラだ。

これを各方面から駅方向に向かって歩く人に向けて貼る。

朝の6時くらいから貼っていくのだ。

朝は色んな所で掃除をしていて剥がされてしまう可能性もあるので目立ちすぎても目立たなすぎてもいけない。

不動産を探している人は、嫌でも目が行くので少ないくらいかなで丁度良い。

ポイントは駅まで向かう人が見れる方向に貼るという位置だ。

あと有効なのが喫茶店前。

 

続いて10時前までに貼っておくのが、スーパーなどの商業施設。

これは事前のリサーチが必要だが、タイムセールやバーゲンなどを調べておく必要がある。

午前中と夕方にだいたいある。

ここで反響が鳴れば即案内になる可能性が高い。

だから絶対にステ看だ。

ちなみに保育園、幼稚園も確実におさえておきたい。

貼ってある場所は自分は把握しているからだいたいの状況はわかっている。

ここで反響を入れてくる方は買い物をしていた方などが多い。

これからするのかもしれない。

荷物もあるかもしれない。

子供も一緒かもしれない。

そしてほぼ奥様だ。

電話で「物件見て頂いて家まで車でお送りしますよ~」という愛情ある一言が言えれば即案内が取れるのだ。

一番気合いを入れるタイミングだが、8時半あたりから警察が入れ替わりのタイミングで自転車乗って走っているので気をつけなくてはならない。

こんなこと書いて大丈夫なのか!

 

そして昼からはサラリーマンの昼食タイムだ。

これは書くまでもないだいろう。

本気で反響が欲しければ昼食を食べている暇はないのだ。

 

夕方まではスーパーなどは貼らない。

僕は高校を卒業してスーパーマーケットに就職していたのだが、各スーパーの時間別の来店客数などをよく見ていた。

昼過ぎなどはほぼ見込めないのだ。

 

昼食タイムが終わったら、事前に調べ上げた周辺施設に貼るのだ。

近くでマンションのモデルルームがあればそこに貼る。

一番良いのがフィットネスクラブだ。

奥様は昼過ぎにフィットネスクラブで汗を流す。

でてきた所で目に付くように。

 

そしていよいよ17時前くらいになるとスーパーが騒がしくなる。

ここはしっかり押さえなくてはならないわけだが、反響が鳴っても即案内の可能性は極めて低い。

だから僕は金曜日と土曜日だけはステ看にして、それ以外は電ビラにしていた。

 

これは間違いないと思うのだが、ステ看は即案内の可能性が高い。

記載できる内容はだいたい4行程度と情報が少ないからだ。

電ビラはチラシを取ってあとでゆっくり見ようという事になる。

 

とにもかくにも

 

情報を提供する⇒電話で話す⇒ご案内する

 

この過程の中で、一つでも過程が増えれば契約の可能性は低くなるのだ。

だからチラシをとって家で精査してほしくないのだ。

奥様だけでもいい。

見てもらって盛り上がって、その気持ちを旦那様にぶつけてほしいのだ。

世の中の奥様はステ看よりも電ビラよりも不動産を売ってくれる。

 

 

 

だから僕らも愛情をもって集客しなくてはならないのだ。

 

5.会社設立から倒産までの軌跡 ~一年生になったら~

僕はいまだに自分のようにギリギリで独立した人と会っていない。

ギリギリお金が足りるならまだしも、既に足りないのだ。

赤字10万円と書いたが、そこには生活費もなければ来月の事務所の家賃はどうするんだという話もある。

会社も辞めた。まわりにも独立すると宣言していた。

この時点で実は「行くも地獄、帰るも地獄」となってしまった。

 

そして晴れて

 

2010年4月22日

僕の会社は登記された。

 

不動産業者として必要な宅建業者免許登録に約160万円かかるのでまだ活動できないが、僕は社会的に

 

 

 

社長になったのだ。

 

 

 

本当に神様は優しい。

昨日までただの会社員だった僕に先払いで社長のイスに座らせてくれた。

あとは僕が本当の意味で社長になれるかだ。

 

問題は赤字をどう解消するかだ。

「う~ん、社長ってのは大変だ。」

なんて考えながら、どこか僕は楽しんでいたと思う。

こんな人間は社長になるべきではないと今は冷静にそう思う。

 

有名な名曲がある。

 

「一年生になったら」

 

♪友達100人できるかな~♪

 

有名なフレーズです。

 

僕は社長一年生とはいえ社長は社長だ。

今までのように仲介手数料300万円もらったら歩合30万円しかもらえないのとはわけが違う。

 

とりあえず一件売れれば少なく見ても

 

♪現金100万できるかな~♪

 

と、呑気に構えていたのだ。

 

ちなみに話は大きくそれて全く関係ない話をする。

この「一年生になったら」という名曲。

怖い都市伝説があるのを皆さんはご存じだろうか?

 

「一年生になったら」

 

一年生になったら

一年生になったら

ともだち100人できるかな

100人で食べたいな

富士山の上でおにぎりを

パックンパックンパックンと

 

きっと誰でも歌えるだろう。

素晴らしい歌だと僕も思う。

 

しかし・・・。

 

よく考えてみよう。

友達が100人できたなら、自分入れると本来101人なのだ。

ところが歌詞の中では100人で食べたいなとなっている。

つまり1人足りてないのだ。

 

今はネット社会なので調べればでてくるが、ここまで書いたので書いておこう。

この足りていない1人にはモデルがいるという都市伝説があるそうだ。

 

この曲が作られたのは戦時中で、いつ誰が死ぬかわからない状況の中で作られた曲だという。

友達が100人できたとして、その中の1人は死んでしまうというほど悲惨な死亡率だった。

 

戦時中に足の悪い子供がいて、その子は友達たちと共に行動することが出来なかったために、足手まといの子供は大人たちの手によって殺(あや)められという説だ。

この曲にその子の想いを乗せることで、弔いの意味を込めて、それを乗り越えようとした話だそうな。

 

 

 

僕がわざわざこれを書いたのは訳がある。

たしかに♪現金100万できるかな~♪

このように楽観的には考えていた。

あくまでも現代版だと思っている。

 

僕は戦争は語り継がなくてはならないし、日本人として忘れてはいけないと強く思っている一人だ。

昔社員旅行で「知覧特攻平和会館」に行ったときに人生観が変わったのだ。

戦争ものの映画を観ることが多くなった。

「永遠のゼロ」もそうだ。

日本はなんとも理不尽で、人間が人間らしく生きていない時代があった。

2度と繰り返してはいけないと思う。

戦争について話し出すと、ブログの趣旨が変わるほど永遠続けられるのでこの辺にしておくが、結局言いたいことは、現代の世の中においての大抵の事は幸せだという事なんだ。

 

嫌なものは嫌だと言える。

やりたいことをやれる。

言いたいことを言える。

おいしいご飯も食べれる。

悩み事で悩めるだけ幸せだと思う。

 

だから僕は、作った会社が赤字スタートでもたいした問題だと思っていなかった。

むしろこうやって笑い話にできる日がきてるわけだから幸せなんだ。

現代では自分で自分を殺めない限りは、あらゆる全ての事が笑い話になる事を僕は知っているから。

4.会社設立から倒産までの軌跡 ~計画と現実~

僕は不動産業を開業するにあたり300万円で余裕だと考えていた。

最初は自分ひとりとフルコミッションの人間使ってやるつもりでいたから。

何回も綿密に計算していた。

今考えるとものすごいザル計算だ。

 

会社登記・・・・・約25万円

事務所費用・・・約50万円

不動産免許・・・約160万円

設備費用等・・・約35万円

---------------------------------------------

合計       約270万円

残金         +30万円

 

※残った30万円は予備費

 

若さゆえの過ちだろうか。

机上の計算ではこれで成り立つのだ。

経営者の経験がおありの方は気付くだろう。

大きな過ちに。

 

4月まではあっという間だ。

どんどん準備を進めよう!

意気揚々と進めていた。

 

会社を作る流れは既に色々調べたり、K取締役やM社長に教えてもらったりしていた。

 

まずは会社の事務所からだ!

 

場所はもう決めていた。

とびきり好きな場所があったのだ。

国民的アニメの舞台の地(わかってしまいそうな・・・)

そこで探し回った。

 

毎日楽しくてしょうがなかった!

日に日に着実に僕は夢に近づいているのだ!

社長!って呼ばれても最初は気付かないフリをしようとか勝手に妄想ばかり先走っていた。

 

売買しかやったことがないとはいえ僕は不動産屋だ。

不動産業ができる事務所を見つけるのはたやすかった。

オートロックのついたマンションの1室だ。

広さは約30㎡

他の部屋で事務所も多くあったが、普通の居住者もいるマンションだった為、なんとお風呂もついている。

会社でお風呂・・・?

僕には重要だった。

なぜかというと、本当はいけないことなので詳しい説明は省略するが、僕はステ看命の男だ。

夏は汗まみれになる。

しかも僕は不動産を売るために合宿的な事をするのが好きだ。

泊まり込みもするだろう。

5階の角部屋で見晴らしも良いのだ。

しかも家賃は108,000円/月

 

僕は速攻でここに決めたのだ。

実はここを借りるにも色々あったのだが、読む人の役に立つ情報ではないので省略します。

とにかく何をするにも自分だけのドラマがあって、毎日楽しくてしょうがないと思います。

 

そしてこの部屋を借りる初期費用が約75万円

 

75万円・・・。

 

75万円・・・。

 

75万円・・・。

 

75万円・・・!

 

家賃10,8000円なのに・・・。

「あれれ・・・。」

 

しつこいようだが僕は売買しかやった事がないとはいえ不動産屋だ。

「40万円くらいじゃないでしょうか・・・。」

と、思っていた。

事務所として借りるには色々あるらしい。

最初にクリーニング代、敷金プラス1ヶ月分、たばこ吸うからクロス交換代。

 

 

いきなり25万円の予算オーバーをしてしまった。

 

 

「ま、いっか!」

 

 

僕は話を進めた。

 

会社の場所が決まったら次は会社登記だ!

 

名前はもう決めていた。

最初は「にこにこ不動産」に本気でしようと思っていたが、まわりからの大反対でさすがやめた。

結局それなりにかっこいいネーミングにしてしまった。

 

知り合いの司法書士に頼んで会社登記をお願いした。

この時に資本金の金額を個人口座に入金して、その写しが必要だ。

僕は資本金300万円にしたので、事務所代を支払う前に入金して写しを取っていた。

本当に300万円しかなかったのだ。

ちなみに生活は、この時はまだ会社員なのでそこそこ良い給料だったのでまかなえていた。

会社登記費用は最初から聞いていたので25万円でやってもらった。

予定通りだ。

 

次は設備等。

 

デスク、コピー機、電話機、接客テーブル、イス、パソコン

 

最初はこんなもんかな・・・。

出来る限りリサイクル品で安くあげようと思っていた。

リサイクルショップを回りまくって、デスク、接客テーブルセットなど本当に気に入ったものを安く手に入れた。

コピー機(複合機)と電話機はレンタルにした。

リースを考えたが、設立したての会社への審査は厳しく落ちてしまったのだ。

コピー機と電話機2台で毎月基本料18000円

ちなみにコピー機は白黒1枚17円でカラー1枚40円

 

今考えると信じられないくらい高かった。

でも選択肢はなかった。

これもこれで後に悲劇を生むのだった。

コピー機の料金150000円/月・・・。

 

とりあえず設備なども揃えたが、なんか事務所が閑散としている。

それはそうと鼻をかもうにもティッシュペーパーもない。

トイレットペーパーも。

僕は必要と思われるものの買い出しに走るのだった。

 

新しい事務所だと思うと嬉しくてあれよあれよと買ってしまう。

棚とか、植物とか新しい文房具やらカレンダー、自分一人しかいないのになぜか行動予定表を書くホワイトボードetc

僕は結局設備費用等に50万円はかけてしまった。

 

なんとこの時点で残金で予備費で考えていた部分をオーバーしてしまったのだ。

 

 

残金150万円

 

 

不動産免許を取得するのに約160万円

 

 

10万円赤字・・・。

 

いきなり僕はやらかしてしまったのだった。

しかし独立を決めた男のハートは強いものだ。

この時の僕の心境は

 

 

「ま、いっか!」

 

 

だったのでした。

 

 

3.会社設立から倒産までの軌跡 ~自己資金0円で独立~

僕が不動産売買の仲介業として独立を決めたのは2009年12月の事だった。

 

年末年始は休みがあったのでゆっくりと考える時間があった。

先走る気持ちを抑えて色々と考えた。

本も何冊も読んだ。

 

やっぱり僕は松下幸之助氏が好きだ。

随所に好きな所はあるのだが、一番感銘を受けるのは、松下幸之助氏が成功したのは3つの事しか考えられないと言う。

 

1つ目は、「家が貧乏だったこと。」

2つ目は、「学校へ行ってないこと。」

3つ目は、「病気がちだったこと。」

 

誰もが人生を諦めてしまう事だと思う。

でも松下幸之助氏は違っていた。

 

家が貧乏だったからお金持ちになろうとした。

学校へ行けなかったから本を読んで一生懸命勉強をした。

身体が弱いから自分のかわりになる人を育てようとした。

 

独立を決めた僕は刺激を受けまくっていた。

それと同時に、家はどちらかと言えば貧乏だが食べるのに困るほどではなく、学校は高校まで卒業して、身体は五体満足・・・。

そんな自分を呪ってみたりもした。

 

僕は松下幸之助氏のように毎日目の前の事をコツコツコツコツやっていこう。

階段を1段ずつ着実に登って行こう。

そう決めたのでした。

後日談ではあるが、僕はそんな当初の気持ちとは裏腹に階段を10段飛ばし、20段飛ばしをして駆け上がり、戻らなくてはならないのに振り向いたら階段はなくなってしまっていた状態に陥ったのでした。

 

僕が独立をするタイミングを4月と言ったのは訳があった。

当然この時には僕は会社員であるから、顧客も抱えていた。

絶対に自分でなくてはならないお客様もいた。

営業マンはそういうのは肌でわかるものだ。

働いている会社にも恩義はある。お客様への責任もある。

それだけは無責任な事はできなかった。

そしてこれをやりきって貰える歩合給は100万円を越える金額でもあった。

それはお世話になった会社に残して行こうと心に決めていたのだ。

「立つ鳥跡を濁さず」

という事だ。

辞めた人間とは関係を持たない社長であるが、僕の男気が伝わってか今でも一緒にゴルフに行ったりしている。

 

なにはともあれ僕は自己資金0円で独立するということに成功している。

昔テレビでやっていた「マネーの虎」を思い出してしまう。

たいしてプレゼンはしていないが、僕は他人のマネーで独立するのだ。

これを読んでくれている方で、これから独立を目指している人には声を大にして言いたい。僕の経験から。

 

 

 

 

「絶対に自分のお金で独立しましょう!」

 

 

 

 

想像つくかもしれないが、しがらみがハンパではない。

対会社でありながら始まりから上下関係が成立している。

必要以上に気を使う。

 

 

もう一度言います。

 

 

 

「絶対に自分のお金で独立しましょう!」

 

 

 

 

おわかりいただけましたでしょうか?

実際に経験しないとわからないとは思うが、これに関しては追って書いていきます。

最終的に僕は1年半で喧嘩別れとなっているので・・・。

 

自己資金0円で独立

 

夢のような話ですが、夢で終わらせたほうが明日は晴れます。

春になっても、夏になっても雪は溶けません。

 

おあとがよろしいようで。

 

 

人生と仕事について知っておいてほしいこと

人生と仕事について知っておいてほしいこと

 

 

 

斎藤一人の道は開ける (PHP文庫)

斎藤一人の道は開ける (PHP文庫)

 

 

 

微差力

微差力

 

 

2.会社設立から倒産までの軌跡 ~「300万円でやってみろ!」~

K取締役との話から僕は色々と一人で考えた。

なんとなく見当はついていた。

 

29歳の僕は、不動産屋で独立するのが明確な夢だった。

3年くらいはその気持ちを持っていた。

独立するほとんどの人は、自分が独立すると決めたらコツコツと貯金をして目標としていたお金が貯まったら独立をする。

 

ところが僕は違っていた。

独立するつもりでいるのにお金がないのだ。

この頃の年収はいわゆる8桁プレーヤーだった。

毎晩夜の街に消えてしまっていたのだ。

よく遊び、よく働いていたと思う。

だから後悔はしていない。

 

おそらくK取締役は僕に独立しろと言うのだろう。

 

「さぁーて、どうするか・・・。」

 

僕はいつものオールバックに新調した裏地の白いグレーのスーツを着込んで愛車のBMWでK取締役の待つ会社へ向かった。

当時僕が気持ちに迷いを持った時に決まって聞く曲は尾崎豊の「十七歳の地図」だった。

 

ちなみにK取締役の会社というのは、新築一戸建てを造る建売会社である。

僕がやりたいのは、それを売る仲介会社だ。

K取締役は自分の会社の物件を売ってくれる人間を探しているはずだ。

それで僕に目を付けたのだろう。

 

そもそも僕は不動産を売るという事に絶対的自信を持っていた。

独立を考える人はみんなそうかもしれないが、とりわけ僕は人よりも売るための勉強をしてきたという自負があった。

初めて入った不動産会社の風習もあったかもしれないが、今では信じられないぐらい厳しい会社だった。

夕方18時からは受話器を手にガムテープで固定されて案内がとれるまで電話をかけ続けるなんて日もあった。

案内がとれなければ23時でも平気で電話をさせられる。

灰皿が飛んできたり、営業マン同士でお客さんの取合いで殴り合いなんてのはザラだ。

もちろん辞める人間も多いが、残る人間は相当精神力の強い人間だ。

これを読んで懐かしく思う人もいるかもしれない。

それが当たり前だった時代のようだ。

僕は厳しい業界の最後の世代で、時代遅れの会社だったと思う。

今はネット見て問い合わせしてきてくれるなんて、なんて楽な時代なんだろうと心底思う。

案内に行って、決めれなかった夜は悔しくて江の島で泣いたりしたものだった。

だから僕は建築の事も勉強して不動産の事も必死に勉強した。

知識をつけて自信を持ったら、僕はあることに気付いた。

 

笑ってくれたお客さんは買う!

 

これに気付いてからの僕は敵なしだった。

当時流行っていたダウンタウンなどを見て研究した。

どうやったら営業にお笑いを取り込めるか。

 

営業方法に関する持論を述べると賛否両論あるのとキリがないのでこの辺にするが、これが未だに僕の礎になっている事は間違いない。

お客さんを接客する僕のテーブルには笑顔と笑い声が絶えない。

家を買うのは楽しい事なんだという考えは僕の原点である。

 

 

「独立か・・・。よしやるぞ!」

 

僕はお金がないにもかかわらず心は決めていた。

そして僕は、いざ独立への扉を開けた。

 

間もなくK取締役とM社長が出迎えてくれた。

その会社の前には当時新型のベンツSクラスとLS600hlが置いてある。

そしてK取締役の風貌。

僕の第一声は

「まるで暴○団事務所ですね。」だった。

会社の脇を歩く猫にすら、気軽に声を掛けれない雰囲気だ。

ちなみにM社長は普通だ。

どちらかといえばK取締役が実権を握っているのはすぐにわかる。

 

ちなみに余談だが、このK取締役という人は会社を潰した今でも付き合っている。

「俺たちはファミリーだ。俺が親ならお前は子。命かけて守ってやる。」

と、言ってくれていて僕の為に涙も流し、体も張ってくれる親分だ。

たまに右手の拳がアザだらけの時があるのが謎だが本当に信頼できる人だ。

 

話を戻します。

前置きもなくK取締役は口を開く。

そして僕との会話は阿吽の呼吸で続く。

 

K取締役 「いつからやるんだ?」

 

僕 「4月からやります。」

 

K取締役 「遅い。」

 

僕 「自分、不器用ですから・・・。」

 

K取締役 「高倉健か!」

 

僕のボケについてきてさすがだなと思った。

 

僕 「それが精一杯です。」

 

K取締役 「わかった。で、金は?」

 

僕 「ありません。」

 

 

 

ドンッ!

 

K取締役はテーブルに100万円の束を3つ叩きつけた。

 

K取締役 「300万円でやってみろ!」

 

僕 「十分すぎるくらいです。ありがたくちょうだい致し・・・」

 

 

ドンッ!

 

K取締役 「返済は10月から。30万ずつ10回、金利5%乗せて持って来い」

 

金銭消費貸借契約書だった。

なんとなく想定内だったので実印を持ち合わせている僕がいた。

 

僕 「それではありがたくお借り致します。」

 

僕は今でもよく300万円握りしめて会社を始めたと話すのだが、実は借りたお金で始めたというのは今ここで初めて暴露した。

とても恥ずかしくて誰にも言えなかったのだ。

 

この日が僕の独立を決定づける日となったのであった。

余計な会話もなく本当にこのように話が進んだのである。

色々と話したのは僕が300万円受け取った後だった。

なんせ僕はK取締役の事をあまり知らない。

興味はあった。

K取締役が僕を取り込もうと決めた決め手はやはりジュリーだったようだ。

前日の忘年会を主催した会社は、業界では大御所だ。

演歌界でいえば北島三郎くらいではないか。

数年前は忘年会で北島三郎を呼んだくらいの会社だ。

そこでジュリーを完璧にやりきって、会場の空気を変えた僕は魅力的だったらしい。

K取締役は過去に部下を300人以上もってきたが、お前のような奴はいなかったと言ってくれた。

 

僕はおだてられると調子に乗るタイプだ。

相当浮かれていたような気がする。

 

この時はまだK取締役と決別する時がくるのを僕は知る由もなかった。

 

こうして僕のいばらの道は始まったのでした。

 

 

本音で生きる 一秒も後悔しない強い生き方 (SB新書)

本音で生きる 一秒も後悔しない強い生き方 (SB新書)

 

 

 

元融資担当が教える 小さな会社がお金を借りるなら 銀行はおやめなさい

元融資担当が教える 小さな会社がお金を借りるなら 銀行はおやめなさい

 

 

1.会社設立から倒産までの軌跡 ~「夢はあるか?」~

あらためまして、はじめまして。

 

会社を倒産させるという事

 

をお読みいただいた方、ありがとうございました。

これから書いていくブログは、会社を作って初めて社長になり紆余曲折ありながら会社をやっていった内容を書きます。

「会社を倒産させる事」を熱心に読んでいただいた方は主に、これから会社を潰そうかと考えておられる社長さんだと思いますので、このブログは読まなくてよろしいかと思います。

また、これはこれから会社を作ろうとしている方向けなので、そういう方は「会社を倒産させるという事」は読まなくてよろしいかと思います。

 

 

2009年12月某日

 

僕は不動産仲介会社の営業マンだった。

都内では割と名の知れた不動産会社だった。

 

12月と言えば世間では忘年会シーズン。

僕は、よく物件を売らせてもらっていた不動産会社の忘年会に呼ばれた。

その会社の忘年会は割と派手で、大昔大流行したグループサウンズの、ある有名グループの方が経営しているお店だった。

そこでは何でも生バンドで歌える店との事。

その日の昼位に「○○君(僕の名前)、一曲歌って盛り上げてくれ!」

と、無茶な注文をしてきたのだ。

 

僕は考えた。

盛り上がる曲。。。

懐かしいところで光GENJIでも歌うか。。。

いや、意表ついて君が代とか。。。

ご年配の方が多いからものまねしながら森進一にするか。。。

 

嫌になってきていた。

「あーーー!もう勝手にしやがれ!」

「・・・あ!」

 

と、ありきたりの流れで沢田研二の「勝手にしやがれに決まった。

仕事中ではあったが、お客様を案内すると嘘をついて家に帰り一番派手なスーツに着替えてドンキホーテに向かった。

ドンキホーテは困ったときに本当に何でもある。

ジュリー風のハットはすぐに見つかった。

そして僕は一目散にカラオケに向かった。

生バンドで大勢の中で歌うのに中途半端はやりたくなかったのだ。

 

カラオケにつくなり、本人映像の「勝手にしやがれ」と携帯でYouTubeを見て必死に振付を覚える。

そう、この曲は振付が重要なのだ。

僕は浜崎あゆみの「Trauma」の振付が完璧にできる男だ。

できないわけがないと言い聞かせながら。

ちなみに携帯はスマホはまだないのでガラケーだ。

3時間歌いこみ、振付を踊りまくって、ハット投げるタイミングも角度も完璧だ。

そして僕は忘年会に乗り込んだ!

 

あまりに完璧に仕上げすぎてしまって僕は緊張した。

他の会社の仲良い人たちもいたので「僕がジュリー歌って完全に空気を僕のものにしますから見ててください!」なんてオーバートークをして完璧に自分を崖っぷちに追い込んでしまった。

 

そろそろ生バンドが始まりそうだなという時に僕は勢いをつけるために焼酎一本を一気飲みで飲み干した。

この飲み方をするとあっという間に気持ちが高揚する。

 

司会の方が

「これから生バンドによる演奏をします!どなたか歌ってくれる方はいますか?」

と勢いよく場を焚き付けた。

 

僕はよく知っている。

こういう時は先手必勝だ。

 

隠していたハットを取り出し

「ジュリーの勝手にしやがれお願いします!!」

と叫んだ。

 

会場は「オー!」という歓喜とともに割れんばかりの拍手だった。

歌詞カードを探してくれていたが僕は

「いりませーーん!」と更に叫んだ。

なぜなら完璧だから。

さらに会場は盛り上がった。

「よし、一気に場を飲み込むぞ」

そう心で思った。

 

結果、完璧な出来だった。

その日以来僕はしばらくジュリーと呼ばれるのであった。

 

「次、どなたかいらっしゃいませんかー?」

と司会の方が呼びかけるも

「ジュリーのあとじゃ誰もいけませんよ!」

なんて声がでる始末。

完璧に僕は勝ったと思った。

 

さて、長い前置きはここまでとします。

問題はここからなのです。

 

以前から僕を気にしていた人がここにいたのです。

その人を仮にK取締役と呼びます。

僕は気にされていたのを知らなかったが、僕の事を「よく売る営業マン」として密かに調査していたとの事。

K取締役の存在は知っていたが、あまり表にはでない人なので話したことはなかった。

建売会社の取締役で裏ボスなんて言われていた。

見た目は格好もしゃべり方もヤ○ザだ。

実はこの頃の僕も、オールバックで派手なダブルのスーツ着て高級時計をして負けてはいなかった。

それも気に入られていた要因の一つのようだ。

 

ジュリーを歌い上げて、だんだん会場が落ち着いてきた頃だった。

 

「○○!(僕の名前)」

 

K取締役から声がかかった。

お互い存在は知っていたが、いきなり呼び捨てか・・・。

と、思った。

 

「ジュリーよかったよ!最高だった!」

と言ってくれたので僕も気をよくして

「光栄です!」

と答えて乾杯させて頂いた。

 

「ところで、○○(僕の名前)」

 

「・・・はい?」

 

酒の席で人が真面目な顔になるとろくなことがない。

なんて考えながら次の言葉を待った。

 

「夢はあるか?」

 

まさかの質問だった。

 

それでもこういう時は答えを選ぶべきではない。

僕はそう感じたので間髪入れず

 

「独立です。」

 

と、答えた。

 

K取締役は不敵な笑みを浮かべながら続けた。

 

「明日、会社に来い。話がある。」

 

これが僕の独立への第一歩だった。

 

沢田研二 in 夜のヒットスタジオ [DVD]

沢田研二 in 夜のヒットスタジオ [DVD]

 

 

 

 

18.復活

長いブログをお読み頂きありがとうございました。

全部でこれを含めて18話になりました。

 

破産を決意したのが平成25年10月頃

裁判所の破産開始決定がでたのが平成26年3月5日

それから6回の債権者集会

免責許可がおりたのが平成27年9月9日

今これを書いているのが平成28年1月27日

 

思い起こせば破産を決意してから約2年の月日が流れました。

人の気持ちは変わりゆくものです。

そして忘れてゆくものです。

恋愛もそれと同じです。

僕はそう考えて生きていました。

離婚の経験もありますが、その時すごくつらい思いをしたのはよく覚えていますが、今は何もつらくありません。

 

会社をつぶした事だけは違うのかもしれません。

年末年始になるとどうしても未だに色々考えます。

ちょうど2年前の今頃です。

自宅からも会社からも離れたマンガ喫茶で隠れていたのは。

 

僕は今、あのころとは違う人たちが多くまわりにいます。

昔から親しい人も当然います。

職場も実は去年の8月に新しくなっています。

もちろん会社員です。

会社を潰した事はみんな知っていますが、僕が社長をやっていた時にかかわっていた人たちではないので誰も僕の本音を知りません。

聞かれれば答えますが、すべて笑顔で答えます。

 

以前書いていますが、本当に人が大事だと思います。

みなさんそれぞれ好きな言葉があると思いますが、僕にも大切にしている言葉があります。

 

「今、目の前にいる人が最高の財産」

 

職場に限らず、僕が笑顔で接していればみんな笑顔で接してくれます。

縁あって新たに出会えた人たち。

昔から知っていて変わらず僕と接してくれる仲間、本気で怒ってくれる先輩。

迷惑を掛けてしまったのに、本当に応援してくれている人もいます。

 

今、僕が話している人は僕にとっての財産なんだ。

そう心から思えるようになったのは苦い経験からの発掘なのかもしれません。

 

そして僕は今も不動産業をやっている。

この仕事が心底好きでいる。

去年、お客様に完成した建物をお引渡しした時に僕は本当に心躍った。

喜んでくれているお客様の笑顔と、僕に感謝してくれているありがたいお言葉もくれた。

人を幸せにする事ができたと実感できた。

 

不動産屋はよくこんな事を口にします。

 

「売れた。」「売れない。」「買う。」「買わない。」「買えない。」「安くなった。」「詰める。」

 

僕も口にします。

でも本質は、このお客様がどうしたら幸せになれるかを考えれば、良い商品が造れて、喜んで買って頂けるのではないかなと思っています。

二つと同じ商品がないのが不動産の良いところ。

だから楽しくてしょうがないのです。

 

破産からの復活

 

と、言いたいところですが、復活には定義がありません。

自分が復活したと思えば復活なのかもしれません。

 

読売巨人軍の原前監督の現役時代の引退セレモニーの際の言葉があります。

「私には夢の続きがあります。」

これはいずれ巨人軍の監督をやります!という意味だったと思います。

 

 

 

今の僕にも夢の続きがあります。

 

この夢は絶対に手に入れなくてはならないと思っています。

そしてこの夢を思い描けるまでに僕は2年の歳月を要しました。

向かえる方向が決まればあとは進むだけです。

 

僕にはやりたい事がある。

 

これを僕は復活と呼んでいます。

 

 

会社を倒産させるという事

 

最後までご愛読頂き深く感謝致します。

 

 

続いて「会社設立から倒産までの軌跡」を書いていきます。

これは主にこれから会社をやりたいという方向けに書きます。

よろしければお付き合い下さい。

 

 

 

17.債権者集会(第6回・最終回)

前回の債権者集会が終わってからというもの、裁判官の最後の言葉が気になりながら過ごしました。

と、同時に裁判官からは再度過去の会社への入出金と個人の入出金をまとめたり、お金を何に使ったか?

口座に記載されている名前の人との関係性や何の取引で契約書の有無などを徹底的にやることになりました。

 

もうこの段階で、破産の意思を示してから1年8か月ほど経過している。

長い。あまりにも長い。

それでも僕は、僕のせいで苦しませてしまった人たちを忘れてはいけないし、背負って生きていかなくてはならないのだ。

 

免責の許可が下りるかどうかはフィフティフィフティと弁護士に言われた。

万が一不許可になれば僕は2億以上の借金を払い続ける事になるのだ。

 

2015年9月3日 14:30

 

さすがに今回は緊張して最後の債権者集会を迎えた。

数にして合計6回だ。

ネットで色々調べてみても3回以上債権者集会をやった事例はない。

担当した弁護士も最長記録ですと言っておられた。

決して自慢できることではないが、この経験がいつかこれを読んでいるどこかの社長さんの励ましになってくれれば僕は嬉しく思う。

 

会場と状況はまったく同じなので割愛するが、今回は最後と思うと色々と考えることは数多くあった事はご想像いただきたい。

 

最後なので一応補足説明を先にさせて頂くと、

 

免責許可・・・簡単に言うと借金がチャラになるという事。

         ゼロから再出発する事ができるありがたい制度

 

免責不許可・・・これはお金をギャンブルであったり至福を肥やす為にお金を使ったり使途不明金が多い場合に不許可になり借金を返し続けなくてはならない。

 

ちなみに免責許可を得るための条件としては、債権者全員の納得が必要であるが、どちらかと言えば債権者の不服がなければ得られる事が多いらしい。

 

債権者というのはこれを読む方は既にご存じでおられると思うが、わかりやすく言うと、お金の貸し借りの場合は、お金を貸した人が債権者、借りた人が債務者。

払う義務を負う人が債務者で、払ってもらう権利を持つ人が債権者。

僕の場合は建築をやっていたので、建築途中で迷惑を掛けてしまったお客様がいるわけだが、実はそのお客様は僕にお金を払う立場にあるので債務者になってしまうのだ。

この辺の定義は確認できなかったので、いつか確認してみようと考えている。

 

補足説明はここまでにして長かった破産の最後を続けます。

 

破産管財人から裁判官に求められていた説明を終えると、最後に

「免責不許可事由はあるものの、免責許可相当であると判断します。」

と、裁判官に告げた。

僕はネットで見たことがあるものを思い出した。

破産管財人が免責不許可と判断したが、裁判官の裁量で免責許可となった事例を。

これがその段階かと悟った。

それと同時に、破産管財人が免責許可と判断している事を聞いて僕はものすごくホッとした。

 

それを受けて裁判官は

 

「それでは一週間程度裁判所で審理をしたのち、許可であれば通知致します。○○(僕の会社)の債権者集会を今回をもって終結致します。」

の声とともに終わりを告げた。

 

裁判所を出たあとに僕は弁護士に尋ねた。

「裁判所の審理で不許可になることはあるんですか?」と。

 

弁護士は

「ここまでくればもう大丈夫です!長い間お疲れ様でした。気持ちを切り替えて頑張ってください!」と、おっしゃってくれた。

 

弁護士の先生には本当にお世話になった。

怒られたりもしたが、最後まで諦めずに僕の味方でいてくれた。

本当に感謝している。

僕は、事務所に歩いていく先生の姿が見えなくなるまでずっと頭をさげて心の中でお礼を言っていた。

 

この日は晴れていた。

天気も心も。

空を眺めて

 

終わった。

 

そうつぶやいた。

 

 

その後、無事に平成27年9月9日付の免責許可通知が手元に届き僕の会社倒産の長い道のりが終わりを迎えたのでした。

16.債権者集会(第5回)

2015年6月4日

5回目の債権者集会

 

 

結論から申し上げますと、今書いている僕はもう債権者集会も終結して新たな気持ちと、忘れてはいけない過去を持ち合わせながら生きています。

 

ここからは、今までの大変さとは裏腹にこんなに簡単かと思うくらいでしたので足早に書いていき、以前から書きたいと思っていた「会社設立から倒産までの軌跡」を書きたいと思います。

 

第四回債権者集会と同様にして第五回は当日は始まりました。

今までと大きな違いは債権者の方が一人も来ておりませんでした。

当日の朝に書いたように今回終わらない事は弁護士も僕もなんとなく察しておりましたので、そのつもりで臨みました。

 

何回も書いておりますが、現場には独特の雰囲気があるものの、すっかりそれに慣れてしまっている自分がすごく嫌だなと感じながら時間を待っていました。

いつものように呼ばれ、いつものように席につき、はじまりました。

 

「今回も前回同様、裁判が終結していないものが一件ありますので様子を見たいと思います。」

 

という破産管財人の声とともに終わると思いましたが、今回は少し違いがありました。

 

裁判官が話の締めくくりに、

 

「以前、債権者の方から指摘のありました資金の内容などを次回までにまとめて報告をお願いします。」

と言われました。

 

「これは・・・。」

 

弁護士も僕も察しがつきました。

以前、詐欺を疑われた内容についてだ・・・。

この内容は既に話が出なくなっていたのでもう終わっているつもりでいた。

 

次回は

 

9月3日 14:30~

6回目の債権者集会

15.債権者集会(第4回)

2015年3月5日 14:30~

 

4回目の債権者集会

 

僕は今回で終わると思っていた。

結果から申し上げると今回で終わらなかった。。。

正直がっくりした。。。

 

このブログも僕がさも悲劇のヒーローのような書き方で嫌気がさしてきている。

でもこれから会社を倒産させようとしている社長さんの為にと、頑張って書いている。

絶対に役に立つはずだから。

 

4回目ともなるので今回は簡単に書こうと思う。

今回の債権者は2名であった。

債権者集会自体は5分もかからず終わってしまった。

 

未だ僕は最中の人間なので、詳細を書くことはできないわけだが、どうやらまだ半年以上はかかりそうだ。

 

そして次回は

 

6月4日 14:30~

5回目の債権者集会だ・・・。

 

次回もおそらく終わらないだろう。

それは間違いないと思う。

 

14.債権者集会(第3回)

12月4日 14:30~

 

3回目の債権者集会の日

 

僕はこの日で終わるものだと確信していた。

なんせ前回は5分たらずで終わったうえに、資産隠しの疑いも晴れているはず。

僕はどうしても年内に決着をつけたかった。

モヤモヤしたまま月日ばかりが経っているから。

1年前の今頃は一番きつかった頃だ。

そして倒産を決意している頃でもあった。

 

「もう1年たつのかぁ・・・。」

 

その日降っていた雨が債権者の涙のように思えてなんか辛かった。

 

2回目の債権者集会から3か月あったわけだが、破産管財人はおろか担当の弁護士からも1本も連絡がない。

こういう時は「便りがないのが良い便り」と、僕は思っている。

 

きっと終わる!

 

そう思って今までで1番晴れた気持ちで裁判所に入っていった。

 

例のごとく裁判所の1階ロビーで弁護士と待ち合わせをした。

しかし今回僕は債権者から隠れることはしなかった。

まわりの人を見渡して

「この人は何の用で来てるのかな?」

などと、他人の事を考える余裕もできていた。

不謹慎なのはわかっている。

でもそれくらい当時は精神的に追い詰められていたのだ。

 

今の僕はけっして仕事がうまくいっているわけではない。

この債権者集会が終わらなければ、気持ちの面で前に進めずにいた。

いいわけかもしれないけど。

 

5分前になり、僕と弁護士は会場に入った。

気持ちが違うとはいえ、3回目とはいえ、この雰囲気は嫌なものだ。

7組のテーブルで同時に始まるので、7人の悪者と、それを裁く大勢の人がいるわけだ。

異様な雰囲気で、かなり独特である。

体験したものにしかわからないかもしれない。

 

「株式会社○○(僕の会社)並びに○○(僕の名前)さんの債権者の方は5番テーブルに移動して下さい。」

 

あっという間に時間がきた。

 

今回は何人の債権者が来るのかと思っていたが、前回と同じ3人であった。

「これは間違いなく今日で終わる。」

そう確信した。

 

「それでは株式会社○○(僕の会社)の3回目の債権者集会を始めます。まずは破産管財人からお願いします。」

と、裁判官が声をかけた。

 

そして債権者集会の内容は、前回と同じだ。

破産管財人から会計報告書が全員に配られ、それを読み上げて説明をしている。

そして最後に



「債権者への配当は前回同様難しい状況です。また、未回収金に関しまして顧客と工務店が係争中となっておりますので引き続き状況を見たいと思います。以上です。」

と、締めくくった。

 

「???」

 

なんと2回目と同じではないか・・・。

なんせ上の文章は2回目のブログをペーストした。

まったく同じだったのだ。

さすがに債権者の1人も声を荒げた。

 

「これじゃ前回と同じじゃないですか!?これだけの為に呼ばれても納得できませんよ。もう少しちゃんと説明して下さい。」

と、言った。

 

いや、僕もさすがに同じ気持ちでいた。

 

そこで破産管財人は答えた。

「裁判中の事なので詳細はお答えできません。」

 

これで何も答えられなくなってしまった。

なんとも不条理な世界だなと僕は感じていた。。。

 

そして裁判官から破産管財人

「やはりまた3か月くらいはみておいたほうが良いですか?」

と尋ねた。

この質問に対し破産管財人

「はい。」

とだけ答えた。

 

「次回の債権者集会は年明けて3月5日14:30からでいかがでしょうか?」

と、裁判官が声を掛けた。

全員同意したのち

「これで株式会社○○(僕の会社)の債権者集会を終了します。続きまして○○(僕の名前)さん個人の債権者集会を始めますので、債権者の方がいらっしゃれば残って頂いて、それ以外の方はご退席下さい。

と続けた。

 

そうして、僕個人の債権者集会はものの数秒で終わり今回の債権者集会は終了してしまった。

 

「まだ続くのか・・・。」

 

裁判所を出るとまだ冷たい雨が降っていた。

その雨は債権者の怒りのごとく強くなっているように感じた。

13.債権者集会(第2回)

9月4日 14:30~

とうとうまたこの日がやってきた。。。

 

2回目の債権者集会

 

前回の流れと元社員とのトラブルを考えれば、今回はきっと荒れるはずだ。

当然眠れていない。

まだまだ夏だから、ものすごく暑い日だった。

僕は今も不動産屋で現場に行くことも多いから顔は黒く焼けていた。

それがまた健康的に見えて嫌だった。

 

前回同様、弁護士の先生と裁判所のロビーで待ち合わせをした。

そしてこれも前回同様に僕は、債権者に見つからないよう時間まで隠れていた。

勝手がわかっているだけに、前回のような緊張はなかった。

今回の不安は、僕を詐欺だと訴えようとしている債権者がいること。

これに尽きた。

しかも破産管財人からは「免責不許可もありえる」と、言われている。

と、いうよりも免責不許可にするつもりくらいに言われている。

 

これを読んでいる方はご存じの方も多いだろう。

免責不許可になったら破産宣告をした意味がまるでない。

日々の取り立てからは解放されたが、負債(借金)がまるまる残るのだ。

また取り立ての日々に戻るであろう。

 

前回同様、弁護士の先生と僕は下を向いて会場に入った。

あいかわらず張りつめた空気だ。

 

「社長(僕の事)、ずいぶん痩せましたね。」

 

そう声を掛けてきたのは債権者である工務店の社長だった。

そう、僕はこの頃には破産開始決定の時よりも20kg以上痩せていたのだ。

 

「本当にこんなところに足を運ばせてしまって申し訳ありません。」

こう答えるのが精いっぱいだった。

 

そして僕と弁護士は隣り合わせで席についた。

勝手は前と同じだ。

今度は5番目だったと思う。

早く終わりたい気持ちと、始まってほしくない気持ちが交差していた。

そうしている中、時間は無残に過ぎていく。

 

例によって呼ばれたのだ。

 

「株式会社○○(僕の会社)並びに○○(僕の名前)さんの債権者の方は5番テーブルに移動して下さい。」

 

僕と弁護士は即座にテーブルに移動した。

 

1回目は債権者10人

今回は何人なんだ。。。

僕はテーブルに着くがまだ上を向けない。

何人か椅子に座る気配がしている。

 

「それでは株式会社○○(僕の会社)の2回目の債権者集会を始めます。まずは破産管財人からお願いします。」

 

裁判官の声とともに僕は顔を上にあげた。

なんと出席した債権者の人数は3人だった。

しかも僕を厳しく追及した債権者達がいない。

なぜだかわからなかった。

不思議なもので、1回目の債権者集会からこの2回目の債権者集会まで約3か月あるのだが、破産管財人と債権者とのやりとりというのは一切僕の耳にははいってこない。

建築中の現場の事もそうだ。

どうなっているのか何も情報が入ってこないのだ。

だから状況は変わっているはずだが、僕の中の状況は1回目の債権者集会のまま止まってしまっているのだ。

 

そして債権者集会の内容は、前回と同じだ。

破産管財人から会計報告書が全員に配られ、それを読み上げて説明をしている。

そして最後に

 

「債権者への配当は前回同様難しい状況です。また、未回収金に関しまして顧客と工務店が係争中となっておりますので引き続き状況を見たいと思います。以上です。」

と、締めくくった。

 

「状況を見たい・・・?」

 

「・・・?」

 

続けて裁判官が話し始めた。

「係争中という事は3か月はかかりますね?」

と、破産管財人に尋ねた。

破産管財人は「はい。」と返事をした。

 

「これで終わらないのか。。。」

僕はこれでようやく悟った。

 

ここで1人の債権者が質問をした。

先程あいさつをした工務店の社長だった。

 

「前回の時に、詐欺を疑って証拠があるって言ってた話はどうなっているんですか?」

と尋ねた。

僕も一番気になっていたところだった。

 

 

破産管財人 「あれから私のところに連絡がありません。」

 

工務店の社長 「じゃあそんなものなかったって事ですかね?」

 

破産管財人 「連絡がないので何もわかりません。」

 

工務店の社長 「わかりました。」

 

こんな会話だった。

ちなみに今回も僕は一言も話していない。

 

「次回の債権者集会は12月4日14:30からでいかがでしょうか?」

と、裁判官が声を掛けた。

全員同意したのち

「これで株式会社○○(僕の会社)の債権者集会を終了します。続きまして○○(僕の名前)さん個人の債権者集会を始めますので、債権者の方がいらっしゃれば残って頂いて、それ以外の方はご退席下さい。

と続けた。

 

今回は全員退席をして、裁判官と破産管財人、そして僕と弁護士の4名のみとなった。」

こちらも前回同様、会計報告をして既に終了している旨が破産管財人から伝えられた。

「これにて本日の債権者集会を終了します。お疲れ様でした。」

と裁判官が言って終了した。

 

最初から最後まででものの5分程度であっただろうか。

前回一番最後までテーブルに残っていたが、僕のテーブルは今回は一番早く終わった。

 

「疑いも晴れたのか。。。」

僕はそう思った。

と、同時に次回で終わりかなと希望も見えてきたのだ。

 

また次回まで3か月はかかるが、僕にとってはホッとする日となった